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結論の美

何人かの数学者は数学的な結論において、一見無関係な印象を受ける二つの異なる数学分野を繋ぐ美を見出している。 そのような結果はしばしば深遠な洞察によるものと表現される。
ある結果が深遠な洞察によるものかどうかということについて普遍の同意を得ることは難しいが、いくつかの例がしばしば引用される。そのひとつはオイラーの等式、
eiπ+1=0
であり、一見無関係であると思われていたネイピア数 (自然対数の底) e, 虚数単位 i, 円周率 π の間に乗法単位元の 1 と乗法零元 (加法単位元) の 0 のみを用いた単純な関係を与えた。アメリカの物理学者リチャード・ファインマンはこの等式を「数学において最も特筆すべき式」(The most remarkable formula in mathematics) と称した。
現代的な例では、楕円曲線とモジュラー形式の間の重要な関連性に関する谷山豊と志村五郎によるモジュラー性定理、すなわち谷山・志村の定理があげられる。 谷山・志村の定理を用いたフェルマー予想の解決に関する業績はアンドリュー・ワイルズとロバート・ラングランズにウルフ賞数学部門の受賞をもたらした。 また、モンスター群 (en) をモジュラー関数に弦理論を通して結びつけるモンスタームーンシャイン はリチャード・ボーチャーズにフィールズ賞をもたらした。
ここでの深遠という言葉の対義語として自明を使用する。 自明な方法は、他の既知の結果から明白あるいは簡単な方法で演繹できるような結果であるかも知れないし、空集合のように特定の対象の特定の集合にだけ適用できるものかも知れない。 しかしながらしばしば、定理の記述の文章は、その証明がかなり明白であっても深い洞察をするのに十分に独自的であるかも知れない。
イギリスの数学者ゴッドフレイ・ハロルド・ハーディは彼の随筆であるある数学者の生涯と弁明で、数学的な美は驚愕の一要素から生じると示唆している。それに対してアメリカの数学者・哲学者であるジャン=カルロ・ロタ (en) は同意せず、次のような反例を提示している。
「数学の偉大な多くの定理はそれが最初に出版されたときに驚愕される。従って例えば20年余り前 (1977年当時) の、高次元の超球におけるエキゾチック球面 (異種球面、en) の存在の証明は驚愕すべきものと考えられたが、現在ではその結論が美しいとは誰にも言わせるものではない。」
それに対してはおそらく皮肉にも、Michael Monastyrskyは次のように記している。
「7次元超球における異なる微分構造に関するジョン・ウィラード・ミルナーの美しい構成についてはそれ以前では類似の発見を探すことは大変に困難であり、... ミルナーのオリジナルの証明はそれほど構成的ではないが、後にE. ブリスコーンはそのような微分構造は究極的に明示的で美しい形で記述できることを示した。」
この反対意見は数学的な美しさの主観的な要素とその数学的な結論の関連性の両方、すなわちこの場合はエキゾチック球面の存在性のみではなくそれらの具体的な実現手段をも表現している。
経験の美
数と記号の操作から生じるある種の歓喜は、あらゆる数学の研究のために必要なものである。 科学哲学でそうであったように、科学や工学に数学が道具として与えられると、他に例がなくとも技術化社会は美学を積極的に培うだろう。
大半の数学者での数学的な美の顕著な経験は、能動的な数学の研究活動からもたらされる。受動的な方法で数学の喜びを楽しむことは大変に難しく、特に数学では、見物人、視聴者、傍観者の立場ではそのような経験をすることはないだろうとされている。バートランド・ラッセルはこのことを数学の厳しい美と称している。
美からの再発見
数学的な美は、その美という結果のみで評することはできない。 数学的な美を追求することは新たなる事実の発見の切っ掛けとなることは珍しいことではない。 物理学者ポール・ディラックは科学者のとるべき行動についてこう述べている。
「数学的な美を持つ理論は実験的データに適合する見苦しい理論よりももっと確からしい。神は最高次の数学者であり、森羅万象を創造するために非常に高度な数学を用いた。」
つまり、このような二者択一を迫られたときには数学的な美を持つ理論を選択せよ、さすればそれは神が創造した真理に近づき、新たな真理の発見に繋がる、という訓示である。